2015年4月24日金曜日

汚点(個人の回想録)1

なぜ,aquanoise Beeryは、セカンドライフを離れ、日本最大のコミュニティー宝島が崩壊したのか?
過去に私個人が起こした問題と、負った責任をここに書いていきます。
投稿は数日に及ぶと思います。実在する企業やメディアが登場します。私が負った責任は、本来誰が負うべき立場だったのか?未だに私の中に大きなシコリとして残っています。

第1話。宝島創設の基本理念。

2006年12月16日当時お付き合いあいていた女性に、こんなメールから始まります。

今ね、バーチャルワールドに入ってみたんだけど。会話が全部英語なので、話してることは大体分かるんだけど、喋ることが出来なくて。こまってます。
勉強のつもりで、もう少し頑張ってみるよ。

2006年12月18日セカンドライフでお世話になった英語圏ユーザーには、

thank you kindness in SL.
Now I'm not good speaker Engrish.but study speak more.
 this place tokyo is AM1:25monday,this morning go to work.I go sleep in the bet.
 I hope see you next.
 good night.

なにが言いたいかというと、2006年12月20日まで、セカンドライフで私は日本人ユーザーに出会う事が出来ませんでした。当時のセカンドライフは今のTSUに少し似ています。日本語対応していませんし、日本語の規約や日本語対応フォントさえ整備されていませんでした。TSUより過酷な条件でした。

2006年12月21日に日付が変わった頃に鳥居がたくさん並ぶSIM(シム)を見つけました。そこで初めて日本人ユーザーに出会います。

「こんばんは。」とチャットで話しかけられました。
私は初めて目にする日本語が嬉しくて、
「Konnbannha」としか自分が打ち込めない事実に気がつきます。
「ああ、まだ日本語フォントを手に入れていないんですね?」
そこから彼女(女性アバター)は、マイクロソフトの該当ページ>フォルダ>指定ファイル>ダウンロード>コピー先を教えてくれました。
当時の私はPCのまったくの初心者で、タイピングは右手の人差し指だけでしか出来なかったし、マシーンスピードや回線速度も今と比べると非常に時間のかかる作業でした。

一時間以上かかったその作業の間、ずっと彼女は私の横で、私が日本語入力出来るようになるまで深夜遅くに付き合ってくれたのです。セカンドライフはバーチャルワールドですが、TSUのようなSNSとは違いリアルタイム・コミュニケーションです。その場を離れる事はできないのです。

深夜遅い時間に、こんなお世話をかけたわけですから、
「どうやって御礼をしたら良いのでしょう?」とお聞きしました。
すると、
「同じように困っている人を見かけたら、同じように助けてあげて下さい。私への御礼は結構です。」
この言葉には痺れました。この言葉が今でも私の基本理念です。

以後セカンドライフで困っている人を見かけたら、率先して声をかけ、またその情報の共有を行うために、宝島というコミュニティーを設立しました。
私を管理人とし、理念に共鳴してくれた10名の実行委員を得て(と思っていましたが実は個々に目的が違っていたようです。)、個人ユーザーの情報共有と救済、またセカンドライフの活性化を行うため活動を始めました。管理人と実行委員の間に上下関係を決めませんでした。また管理人は、2~3年の任期を持って終了し、その後は選挙で選ぶ事も決めました。

この活動はセカンドライフ正規日本語版リリースから、日本担当のリンデン社の社員常駐後も活発に続けられ、宝島は日本最大の個人コミュニティーに成長しました。

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